山本仁左衛門家縁起
当家は通称を「カラヤ」と稱し其名称の由来は、泉州堺より身を興し今の韓国中国の貿易品(唐物)を扱った所から、
唐屋と言い又農具鍬柄の製造より柄屋とも言われた。
特に「金襴緞子」等の呉服物を商った時代には「小袖屋」と称し全盛を極め、一世を風靡したと伝えられている。
然し確証はない。 亦、其の歴史は詳らかではない。
推定約七百年前に遡るといわれ遠く正応永仁(1280~1295)の頃と伝えられている。
即ち本興寺過去帳並に感応院の古い過去帖には「妙仁」正応二年、「妙林」同年、「宗玄」正安二年と出ているが
之れより以後壱百八十年間の消息は不明である。
(昭和58年調べ)
平成五年の終り頃、旧感応院過去帳が見付かり、該当の戒名を照見した所「妙仁、妙林」の法名が出てきた。
次いで長享二年(1488)京都の「熊野神社氏子名記」の中に「小袖屋治兵衛」の名が出ている。
(昭和48年4月調べ)
長享二年は御開山日真大和尚が、妙顕寺を出られて四条大宮に本妙興隆寺(今の本隆寺)を創建された年で、
「本隆寺記録」には「小袖屋公文本化の大信者となり、陰に陽に協力せり」と出ている。
公文とは山本治郎右衛門の事で「カラヤ」の初代として全盛にあった時と思われる。
次に分家浄運越前府中に一寺建立を発願し一堂を建立、自己の名を冠して久成寺と名づける。
以来歳を重ね時移りて五百有余年今日に至る。
其の間「小袖屋、唐屋、油屋、紙屋、柄屋、からや」等、名称、職種共に変遷し
栄枯盛衰を繰返し現在の「カラヤ株式会社」へと発展せり。
去る某日「我が家のルーツ」を辿り、先祖への感謝報恩の誠を実践せんものと拙寺に依頼あり。
之によって以前依り収集せる種々の文献、山本家蔵の古文書等、その他、本興寺過去帳及び顕正院過去帖、
本隆寺、本能寺、調御寺、久成寺等の文献より又武生史誌、福井県史、文化美術史等の参考資料を収集するも
古老の語り伝えや伝説等に至っては困惑するのみで、唯ひたすら関係の有りそうな資料を集めた許りである。
後人の為の一助にもなれば幸いである。 一文を附して序とする。
平成六年八月先代命日 顕正院第二十五世順正院日典之記
千利休が激賞した茶入れを千貫文で買った呉服商小袖屋の屋敷跡
総社前通りか(蓬莱町・幸町か)
戦国時代、武生の小袖屋が千貫文で手に入れた天下一品の茶入れ
明治33年、34年の略暦を印刷した「引き札」(顧客に配布する広告ビラ)に「正札呉服小袖商店」と書いたものがあるが、
呉服屋川上源右衛門の発行である。
その場所は今のきだに食品店、みやもとそば屋(幸町5)あたりである。
その後源右衛門は幸町から常盤町【ときわちょう】(桂町あたり)に移転したようだが、
中世末期に武生の呉服屋として有名な小袖屋もこれらの付近にあったと思われる。
小袖屋について、
天下一の名物「九十九髪茄子【つくもかみなす】」の茶入れと、菩提寺久成寺【くじょうじ】の創建のことを記してみよう。
九十九髪茄子つくもなす
千利休が天下一の名物と激賞した唐物【からもの】の茶入れ「九十九髪茄子」を、戦国時代の武生の呉服屋小袖屋が
値千貫文で手に入れたという(『山上宗二記』)。当時の武生の商人が名物の茶入れに関心を示した文化の高さを物語る話である。
この茶入れは、高さ二寸二分(約6cm)、胴の幅二寸四分五厘(約7cm)廻り七寸六分(約23cm)あり、抹茶の茶いれとしては大きくやや扁平な形である。
『九十九髪茄子』は次のように人々の手を渡っている。 茶道の祖といわれる村田珠光【むらたじゅこう】が九十九貫文で求めて将軍足利義政に献じた。それで「九十九髪茄子」(付藻髪茄子)の名が付いた。
やがて越前一乗谷の朝倉太郎左衛門が五〇〇貫文で求めた。それを府中武生の小袖屋が千貫文で手に入れたというのである。
その後小袖屋は茶入れの仕覆【しふく】を京都の袋屋に作らせるため預けたが、袋屋は天文法華の乱(天文5年1536)で失ったと言って返してくれなかったが、実は大和国の武将松永久秀【ひさひで】の手に渡っていた。やがて久秀は織田信長に献上し、信長の愛玩する名品の一つとなったが、本能寺の変に焼失したとも伝えられ、一方では焼け跡から無事に捜し出し現在三菱商事株式会社関連の財団法人静嘉堂文庫が静嘉堂珠宝として大切に所有保管しているとも言う。
久成寺くじょうじ
久成寺(法華宗本門派、武生市平和町2)の開基は京都の小袖屋の一族で武生の小袖屋山本治郎右衛門久成【ひさなり】である。久成は天文15年(1546)に一宇【いちう】を建て菩提寺とし自分の名乗の久成を寺号とし、京都から日悟を招き開山とした。久成は同23年(1554)3月死去している。(『本能寺史料』)